乗光寺(じょうこうじ)について

住職からのご挨拶

こんにちわ、私は第二十六代目の住職、佐々木進といいます。

金沢と言えば金箔が有名ですが、乗光寺には安阿弥の手による一尺二寸の阿弥陀仏が、金箔を張り巡らせた伽藍(がらん)に囲まれており、とても優雅な光景です。

二十六代目住職

金とは、人の心に「和らぐ」「親しむ」「高貴」という感情を与え、世界中でとても大切にされている物です。

江戸時代の金沢では、貴重な金を少しづつ利用する為に、金塊から金を薄く削り取り、金箔として愛重してきました。又、金箔の美しさを取り込むために、内陣(ないじん)や伽藍などの装飾にも多く使われていきました。

金箔により装飾された内陣で拝むことで、誰でも金の大切さを忘れることなく、そしてその美しい輝きを見ることで、自然に脳に反応しありがたやぁ」「うれしやなぁ」と心に安らぎがうまれてくるのです。

皆さまも是非、小さいながらも心癒される乗光寺の内陣にてご参拝ください。

拝むことで心の煩悩も消え、やがてまた「がんばるぞ」という気持ちも湧いてくるかと思います。

住職 佐々木進「金のありがたみ」より

 

乗光寺発祥の歴史

佐々木家とは、先祖が「佐々木四郎高綱」であり源氏の子孫でございます。

寿永三年。鎌倉時代の字治川合戦にて先陣の功をたてた、佐々木四郎高綱でしたが、切ったはったの世界に嫌気をさし、一族共々で津端町の南横根に流れ着きました。そして、争いを避けるように仏門に入り「乗光寺」を建立したのです。

「安城御影」より 親鸞聖人

又、当時の乗光寺は、天台宗でしたが「親鸞聖人」に出会い弟子になることで浄土真宗となりました。※親鸞聖人についてはこちらをご覧ください。

時は流れ江戸時代。

当時は戦国時代で、前田家が百万石の領土を頂き、富山県小矢部市に出城を作りました。それに伴い、城主が城元に神社仏閣を寄せたいとの事で、乗光寺もその土地へ移り住み、やがて大きな町として発展していきました。

さらに時は流れ…。

前田家の城主が亡くなり金銭難に陥りました。

しかし、世は平和な時代となっていたので城の必要性もなくなり、あえて城を作らずともよいと考え、町だけが残される形となりました。

そんな町も、百万石(国家予算6000万円)という土地なだけに、物流が盛んになり、商人から農民など沢山の人が集まってきました。集まってきた者の中には家族の負担を減らす為に口減らしとして、町で出向く者も多かったそうです。

門に掲げる歴史を記した看板。

やがて、町に住む者達もいずれは亡くなるわけですが、その者達の菩提供養をする必要があるため、当時の住職(十五代目 円春)が、金沢にも寺院を儲け布教活動をしたいと前田様にお願いしました。

その願いは、寺院を建てる代わりにその建物には必ず「屋号」を付けるという約束にて布教活動の許可を得ることができたのです。

当時名付けた屋号は「旅屋」となり現乗光寺の発祥の形となりました。

又、建てた場所は、今でいいますと、旧市街の馬場小学校がある場所にあったのですが、建物も手狭になったとのことで、最終的に山の上町に移り住み今に至ります。

乗光寺は、鎌倉時代から江戸時代へ、そして現在へと時代の移り変わりを目の当たりした、歴史深いお寺なのです。

佐々木四郎高綱(ささきしろうたかつな)

平安時代末期から鎌倉時代初期の武将である。

近江国の佐々木庄を地盤とする佐々木氏の棟梁である佐々木秀義の4男。母親を通じて源頼朝、源義経、源義仲らは従兄弟にあたる。

『平家物語』や『源平盛衰記』にその活躍が描かれ、宇治川の戦いにおける梶原景季との先陣争いで知られる。歌舞伎の『鎌倉三代記』にも登場し、非常に人気のある武士である。

ウィキペディア参照